着物

母方の祖母は、着物を自分で縫う人だった。

祖母は一昨年亡くなってしまったけれど、祖母から貰った着物が何着もうちにある。

亡くなる二年前には、押し入れを整理する様に色々な着物を見せてくれて、中には祖母が自分で織った反物で作った着物もあって、少し痛んでいたけれど貰って来て、沢山の祖母の手縫いの着物や羽織りがうちに置いてある。

母が元々持っていたものもあるから、かなりの数はあると思われる。

母はずっと、自分が大学を卒業する時に作ってもらったという訪問着を私にくれるという話をしていた。

赤ちゃんが産まれたら、お宮参りをする時にその着物を着たいと話していたのだけれど、昨日初めてその着物を目にした。

母が作ってもらった時には若草色だったらしいけれど、シミがついてしまって染め直したのだという。

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祖母は、絹の白地を選んでから色を染めて着物を作っていたらしい。

そして、この訪問着も祖母が縫ってくれたものだとか。

着物の事は私には良く分からないけれど、祖母のこだわりの品達は、母の着付けをしてくれた人が何とも着付けしやすいのだとお褒めの言葉を頂いたのだと話していた。

私が結婚式を挙げた時にも、母方の親戚の家にある白無垢と袴を借りた。

白無垢と袴が家にあるというのも驚きだけれど、こだわりの婚礼衣装を着れた事は一生の思い出。

白無垢の白があまりに真っ白で感動したものだった。当初、綿帽子ではなくて角隠しをしようと思っていたのだけど、角隠しに少しシミがついてしまっていて、結婚式場の角隠しを見せてもらった。

けれど、白の色合いが合うものが一つも見つけられず、結局綿帽子にしたのだった。

式場の貸衣装の角隠しと、親戚の白無垢の角隠しと、何かが違うのは着物素人の私でも一目で分かった。

旦那さんが着た袴も、話によると帯もとても珍しいものを使っているとか。同じ袴で結婚式をあげた従兄弟達は、着付けの人に驚かれたのだと言っていたし、旦那さんもそう言われたと言っていた。

やっぱり、祖母から色々な事を聞いて育った母のお姉さんだから、一生ものの買い物にはこだわったのかもしれないと思う。そして、あの白無垢の白を保っておくには、本当に行き届いた手入れが必要だよな・・と今つくづく思う。

そうして、丁寧に手入れしながら何年も何年もあの純白を保てる技術。日本の文化はやっぱり素晴らしい。

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もう一度、白無垢着たい。

一生に一度だから良いのでしょうけれど、重いし肩は痛くなるし大変だったけれど、本当に素晴らしい良い思い出です。

 

 

 

 

日本の素晴らしい文化に触れる機会があまり無いのは残念だけれど、これから子供を育てながら、着付けとか勉強して、お婆ちゃんがつくった着物を日常的に着て楽しめる様になれたらどんなに良いかな〜と思う。

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そして、時代を経てもちっとも変わらない着物の良さ。

母の着物を着れる日を、今から楽しみにしている。

その頃は、お腹のスイカも無くなって、スッキリしているはず。

着物、大好き。

    物思いにふける

    出産予定日まで1ヶ月をきった。

    スイカを丸ごと入れた様なお腹。夜は苦しくて横にしか寝られない毎日だけれど、出産終ったら、まずうつ伏せに寝たいと妄想を広げている。

    いつ、赤ちゃんが出て来てくれるのだろうと思いながら、何だか最近は物思いにふける事が多い。

    時間が沢山あるからかもしれない。

    昨日、ふと思い出して10年くらい前に毎日書いていた日記を読み返してみた。

    ある友達からの24歳の誕生日プレゼントで貰ったノート。その頃の私はリスボンでダンスの仕事をしていたけれど、カンパニーでの仕事は自分の望んでいた様なものでは無くて、一番キツかった時期かな〜と今でも思い出す。

    でも、素晴らしい友人に出会う事が出来たし、苦手なものを克服するチャンスはそこで得たし、何よりもとても良い人生の経験となったな〜と思い出す。

    日記を見返してみると、毎日自分を一生懸命に励まし、今ある状況をどうにかポジティブにとらえようとして、何度も何度も両親や友人への支えへの感謝の言葉が出て来ていて、なんとか腐らない様に自分を持ち上げていたのだな。と関心してしまう。

    でも、その努力はやっぱりどこかで必ず道を作ってくれて、自分がどうしても入りたい!とずっと願っていたカンパニーへは、とあるコネクションがつないでくれたし、コントラクトは貰えなかったけれど、アシスタントディレクターの人は私を一生懸命ディレクターに推してくれようとしてくれた事や、素晴らしいダンサー達を見ているその人が自分の事を良いダンサーだと言ってくれた事がどんなに自分にとっての自信になった事か・・。残念ながらカンパニー自体がなくなってしまって、その後チャンスは巡ってこなかったけれど、本当に素晴らしい経験となったのだった。

    一番辛い時期に頑張る気力をくれた大きな出来事だったし、素敵なダンサーは人間的にも素敵な人ばかりだとつくづくそのカンパニーに触れる事で感じたものだった。

    その頃、自分の働くカンパニーの施設に住んでいた私は、時間がある時には一人でスタジオにこもって、ひたすら苦手だったインプロを色々な音をかけて踊っていたものだった。そのお陰で、インプロをする事や、創作をするという事に興味がいく様になったし、何よりも目標としていた次の仕事もそれでGETしたようなものだし、やっぱりあの苦い思い出の期間は、そうすてたもんじゃないとつくづく思う。

    なぜ、今一番大変だと感じていた時期を振り返っているのかは分からないけれど、これから子供が産まれ、大きくなって子供が何かに煮詰まった時、この話をしてあげたいな。と思ったりしている。

    10年たっても、日記に書いてある自分の字を見ると、鮮明にその時の気持ちが蘇って来るようで不思議だった。

    今は毎日日記はつけていないけれど、その分心に余裕がある様な気はしている。

    ノートに日記を書き留めるという事で、後にも残るそのノートにネガティブな事は書かない様に自分でしていたのだと思う。そうしていないと、もしかしたら心まで折れてしまっていたかもしれない。

    時々出てきていた「日本に帰りたいな。」「日本の友達と話したいな。」「家族に会いたいな。」

    でも、その後には必ず、「でも、今は自分の目標を手に入れられる様にココで頑張るんだ!」と自分を励ますその言葉はなかなかカッコ良く、今若かりし頃のあの気合いを感じれた事はとても刺激になった。

    10年も前と考えると、長いようであっという間!!

    これから、自分も自分の子供もどんな人生を歩んでいくのかな。でも、いつでも10年前のあの時の様な気持ちは大事にもっていたいな・・・と思うのでした。

     

    甥っ子達を連れて行った自然の中のアスレチック。??-1

    これからが楽しみな子供達!!子供は未来の宝です!!!!